年譜


明治5年(1872)
3月25日長野県筑摩群神坂村に生まれた。父正樹、母ぬいの四男三女の末子で本名は春樹。生家は馬籠宿の本陣、庄屋、問屋をかねる旧家である。
明治11年(1878)6歳
神坂村小学校に入学。父から「千字文」「勧学篇」などを授けられ「孝経」「論語」などの 素読を学ぶ
明治14年(1881)9歳
長姉の縁づいた高瀬薫宅に寄宿し上京。泰明小学校に入る。
明治15年(1882)10歳
高瀬一家が木曾福島に帰ったので薫母方の親戚にあたる力丸元長に預けられる。
明治16年(1883)11歳
高瀬の同郷人、銀座の吉村忠道の家に引きとられる。藤村を物心両面で支援した。
明治19年(1886)14歳
三田英学校に入学、吉村家が日本橋浜町に移転したため、9月、淡路町の共立学校に転校。11月父正樹死去。
明治20年(1887)15歳
明治学院普通部本科に入学。
明治22年(1889)17歳
高輪の台町教会で木村熊ニ牧師から受洗した。
明治24年(1891)19歳
6月、明治学院普通学部本科卒業。
明治25年(1892)20歳
2月、北村透谷のと知る。4月明治女学校高等科英文科の教師になるがこの年の暮れ辞職した。
明治26年(1893)21歳
1月、星野天知、北村透谷らと「文学界」創刊。キリスト教会の籍を退き関西漂白の旅に出る。
明治27年(1894)22歳
4月、明治女学校に復職。5月北村透谷の死に会う。
明治29年(1896)24歳
仙台の東北学院の英語教師として赴任。詩「草影虫語」を「文学界」に発表。10月母死去。11月、12月、以後次々と詩を「文学界」などに発表。
明治30年(1897)25歳
処女詩集「若菜集」を春陽堂から刊行。秋、東北学院を辞し帰京。
明治31年(1898)26歳
1月、「文学界」が終刊、「告別の辞」を発表。詩文集「一葉舟」、第三詩集「夏草」を出版。
明治32年(1899)27歳
4月、木村熊ニの小諸義塾に招かれ英語、国語の教師として赴任。秦冬子と結婚。冬子は函館の網問屋秦慶治の次女。
明治33年(1900)28歳
第四集「落梅集」を出版。「千曲川のスケッチ」初稿を執筆し、詩から散文に移ろうとした。
明治35年(1902)30歳
11月「旧主人」を「新小説」に、「藁草履」を「明星」に発表。「旧主人」は風俗壊乱の理由で発売禁止処分を受ける。
明治37年(1904)32歳
1月、「水彩画家」を「新小説」に発表。函館の秦家を訪れて「破戒」の刊行費の援助を依頼した。9月、合本「藤村詩集」を刊行。
明治38年(1905)33歳
4月小諸義塾を辞して上京。西大久保に一家を構えた。5月三女縫子死去。10月長男楠雄出生。
明治39年(1906)34歳
3月、「破戒」を緑陰叢書第一篇として自費出版した。4月次女孝子、6月に長女緑が相次いで死去。10月浅草新片町に転居。
明治40年(1907)35歳
1月、第一短編集「緑葉集」を春陽堂から刊行。9月次男鶏ニ出生。
明治41年(1908)36歳
4月から「春」を「朝日新聞」に連載、10月「緑陰叢書」第二篇として刊行。12月三男蓊助出生。
明治42年(1909)37歳
9月最初の感想集「新片町より」を佐久良書房から刊行。
明治43年(1910)38歳
1月〜5月「家」を「読売新聞」に連載。8月四女柳子出生。妻冬子死去。楠雄、鶏ニを手元にのこし、蓊助は高瀬家に、柳子は知人に預けた。
明治44年(1911)39歳
1月、4月、「家」続編を「犠牲」と題して「中央公論」に発表。6月から「千曲川スケッチ」を「中学世界」に連載、大正元年8月まで。11月「家」ニ巻を自費出版。
明治45年・大正元年(1912)40歳
4月、第三短編集「食後」を博文館から刊行。
大正2年(1913)41歳
1月、小説集「朝飯」を春陽堂から、2月、少年読本「眼鏡」を実業之日本社から刊行。3月、芝区二本榎西町へ転居。4月第四短編集「微風」を、第二感想集「後の新片町より」を新潮社から刊行。4月姪こま子との関係を清算するため渡仏。
大正3年(1914)42歳
5月「桜の実の熟する時」を「文章世界」に断続連載、7年6月完結。7月第一じ世界大戦が勃発。
8月、リオモジュに戦禍を避け、11月、パリに帰る。
大正4年(1915)43歳
「東京朝日新聞」に送ったフランス通信をまとめ、1月、「平和の巴里」12月、「戦争と巴里」として刊行。
大正5年(1916)44歳
4月パリを発ち、ロンドンを経て、7月帰国。9月早稲田大学講師になった。
大正6年(1917)45歳
4月童話集「幼きものに」を実業之日本社から刊行。6月芝区西久保桜川町の」高等下宿風柳館に移転。姪こま子との関係が復活していた。この年慶応義塾大学でも仏文学を講義。
大正7年(1918)46歳
5月から「新生」第一部を「東京朝日新聞」に連載、10月完結。7月航海記「海へ」を実業之日本社から刊行。秋「新生」の発表によって、姪こま子が台湾の長兄秀雄のもとに引き取られていった。10月麻布飯倉片町33に転居、以後19年間ここに住んだ。
大正8年(1919)47歳
4月「新生」第二部を「東京朝日新聞」に連載、10月完結。こま子帰国。
大正9年(1920)48歳
9月「エトランゼエ」を「東京朝日新聞」に連載、翌年1月完結。12月童話集「ふるさと」を実業之日本社から刊行。
大正10年(1921)49歳
7月「ある女の生涯」を「新潮」に発表。
大正11年(1922)50歳
1月自選自編「藤村全集」全12巻を同刊行会から刊行。4月婦人雑誌「処女地」創刊、翌年1月10号を発行して廃刊。9月第三感想集「飯倉だより」をアルスから「エトランゼエ」を春陽堂から刊行。
大正12年」(1923)51歳
1月軽い脳溢血で倒れた。2月小田原で静養。9月関東大震災に遭遇し、10月「震災記(子に送る手紙)」を「朝日新聞」に連載。
大正13年」(1924)52歳
童話集「をさなものがたり」を研究社から刊行。
大正14年(1925)53歳
1月「伸び支度」を「新潮」に発表。3月第四感想集「春を待ちつゝ」をアルスから刊行。8月加藤静子と「藤村読本」の編集に着手。
大正15年・昭和元年(1926)54歳
2月、加藤静子を助手にして「藤村読本」全6巻を編み、研究社から刊行。
昭和2年(1927)55歳
1月、第五短編集「嵐」を新潮社から刊行。7月「山陰土産」を「大阪朝日新聞」に連載、9月完結。8月「分配」
を「中央公論」に発表。
昭和3年(1928)56歳
4月、馬籠を訪れ、名古屋を経て帰る。「夜明け前」の準備が本格化した。11月加藤静子と結婚。
昭和4年(1929)57歳
4月「夜明け前」第一部を「中央公論」に断続連載、7年1月完結。
昭和5年(1930)58歳
5月、「田山花袋との最後の対面」を「東京朝日新聞」に発表。10月第五感想集「市井にありて」を岩波書店から刊行。
昭和7年(1932)60歳
1月「夜明け前」第一部を新潮社から刊行。4月「夜明け前」第二部を「中央公論」に連載、10年10月完結。
昭和10年(1935)63歳
11月「夜明け前」第二部を新潮社から刊行。著作の整理にかかり、定本版「藤村文庫」全10編を新潮社から刊行。この年、日本ペンクラブを結成、その初代会長に就任した。
昭和11年(1936)64歳
1月、「夜明け前」によって朝日文化省を受賞。6月第六感想集「桃の雫」を岩波書店から刊行。7月第14回
国際ペンクラブ大会に出席のため、妻静子、有島生馬とアルゼンチンへ行き、帰途、アメリカからフランスを回った。
昭和12年(1937)65歳
1月帰国。麹町区下六番町の新居に入る。6月「巡礼」を「改造」に連載、11月までで中断。帝国芸術院創設の際、推されたが辞退した。10月萎縮腎を病む。
昭和14年(1939)67歳
2月「藤村文庫」全10編を完結。4月ふたたび「巡礼」の続稿の連載をはじめ、翌年1月完結。
昭和15年(1940)68歳
11月、童話集「力餅」を研究社から刊行。この年帝国芸術院会員に再度推され、受諾した。
昭和16年(1941)69歳
1月「昭和16年を迎へて」を「朝日新聞」に発表、新体制運動に迎合する時潮に警告した。2月神奈川県大
磯に借家し、東京との往復生活を始めた。
昭和17年(1942)70歳
6月日本文学報国会名誉会員となる。8月大磯の土地家屋を購入した。秋、上京して「東方の門」序の章を執筆11月、第一回大東亜文学者大会に出席。
昭和18年(1943)71歳
1月「東方の門」を「中央公論」に連載、10月まで。8月22日、大磯の自宅で脳溢血のため永眠。大磯の地福寺に埋葬し、遺髪と遺爪を馬籠永昌寺に分葬した。戒名は(文樹院静屋藤村居士)。

 

 


 
 

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